海の波と鏡の空間

トム・ムストロフ 

(2018年2月12日付/ターゲス・ツァイトゥング)

 

田中奈緒子はゾフィーエン・ゼーレで初公演となった "Still Lives“にて、

まるで呪い師のように観客の知覚装置を開いた―

それは私たちをごく僅かな変化にも敏感に反応させる

田中は新作『Still Lives』でゾフィーエン・ゼーレを魔法にかけた。東京に生まれ、現在はベルリンに住む彼女は、ファインアートとコンテンポラリーダンスが重なる分野において、特別な存在だ。しかしそこにおいて彼女は、標準的市場に適合しようとたり、成功を約束するであろう戦略を追求しようとはしない。田中が信頼をおいているのは芸術そのもの―それをめぐるあらゆる言説や空談から解き放たれた時の、芸術の本来の姿なのである : それは、覚醒と夢想の間の状態にある気配や構造を捕まえる、遊戯なのだ。

 

光の指が銀に輝く表面を撫でていく

そこで用いられるのは最小限のリソースだ。絶賛された「影の3部作」シリーズ(『光を投げる女』(2011)、『絶対光度/絶対等級』(2012)と『内在しない光』(2015))では、光が主役であった。ベルリンのゾフィーエン・ゼーレで4日間に渡り公演された今作『Still Lives』では、それをさらに超え、語りの術としてオブジェが組み込まれる。それでも光は『Still Lives』でも重要な役割を持つ ― たった一台の照明という形を持って。それは時には舞台空間を舐めオブジェを捕まえ、またある時はそれぞれの観客の身体を暗闇から浮かび上がらせ、視覚的遊戯の構成要素とする。そしてさらに、ゾフィーエン・ゼーレのヒビだらけの壁を、抽象画家の作品のように洗練させるのである。

 

それは巨大なプラスチックシートで始まる。空気で満たされたそれは体のようになり、膨らんだ亀の甲羅を思わせる。光の指が銀に輝く表面を撫でていく。田中が現れ小さなモノ(のちにそれはゴムボールであることが分かる)を空気で膨らんだシートの上へ投げ込む。投げ入れられた箇所は凹み、地面へと沈む。触れられることで、シートに波の形が生まれる : その海はゾフィーエン・ゼーレを包み込むかのようだ。やがて波は津波のような次元へとその勢いを増す。田中はシートの上で歩を進め、まるで呪い師のように観客の知覚装置を開く。そして気配、連想、ごく僅かな変化にも敏感に反応させる。

 

後に(シートは引き上げられ、床の上の反射する楕円が姿を現わしている)田中は共同制作者である芝原と共に本棚や机、椅子などのオブジェを空間内へ招き入れる。空間に斜めに貼られたワイヤーによって、本などの小さなオブジェも活動空間へと持ち込まれる。田中がここで行う行為は具体的に演劇に近いものになりすぎ、謎めいた性質を失ってしまう。彼女は机の横に腰掛け本のページをめくる。もちろん : 迷い込んで出られなくなるような官僚的制度についての諸連想が浮かぶ。しかしフランツ・カフカのような観察眼の鋭さはここには出てこない。

 

その後、田中と芝原は幸いながらこの具体的な状況を抜けだす。大き目のオブジェは、斜めの切り目によってを用いて解体される。不規則に、水平の近郊から外されたオブジェの体が反射する楕円の上へと引きずられ押し流される。ここには座面が、そこには机の面が見えるのだが、全てがシュールに傾き、床面に反射するそれぞれの虚像とともに、全く新しい今まで見たこともないような立体構造を紡ぎ出される。そのようにして田中と芝原はその光沢のある楕円形を埋めていく。彼らは想像力の風景を造り上げる。彼らが立ち入ることを許された、新しい、いまだに/もしくはもはや、人間の住んでいない帝国。正当化のいらない偉大な芸術 ―- 必要なのは、それを受け取る感性のみである。

© 2019 Naoko Tanaka