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田中奈緒子は「STILL LIVES」で詩的な自己忘却の宇宙へと誘う

 

クリスティーネ・マチュケ

 

 

残された残響以上に、ある芸術作品について語るものはないのではないか。

 

田中奈緒子の上演型インスタレーション「STILL LIVES」は、そのような特別な種類の芸術作品との出会いの1つである。彼女は観客を緻密なイメージ、

感情、思考の繭の中に織り込む。その完全な幻惑的な力は、陰鬱で超現実的なそのパフォーマンスの後でゆっくりと姿をあらわすのである。

白いネオン管の禁欲的な光に照らされた巨大なポリエチレンクッションの後ろに、長い髪の女性がひざまずいている。彼女の姿勢だけでなく、ポリエチレンの巨大さとの比例関係は、彼女に何か少女のような子供っぽさを与える。

影のように見えるその人物は、岩や山のようでもるその立体物に向かって石を

投げる。それは輪を形成し、水面のように変化する。そうして行くうちに、

石のように見えたものは、小さなスーパーボールであることが分かる。

ガラス玉や真珠で釣りをするかように、田中は巨大なポリエチレンクッションの上を歩く。ポリエチレンは彼女の体重と歩行によって変形し、海の波の中を歩いているように見える。

ここで田中によって繰り広げられるのは、形状の間の流れるような変化と、

静止画のようなモードの奇妙に寄る辺ない動きのシナリオによるコレオグラフィーである。

田中がここに示す自然の中での子供の遊びのようなもの、その馴染みさを

知覚するのは特別なことではなく、偉大な記憶考古学を持って来る必要はないように思える。しかし、人はそのような子供時代の思い出をどのくらい明確に心に留めているだろうか?

それらはー田中の示すおとぎ話の風景そのもののようにー夢のような抽象的でぼやけたイメージと、潜在意識の深みから浮かび上がる感情ー馴染みのある、同時に長い間忘れられた像の写し、つまり再び、それは見知らぬものの

イメージとしてではないだろうか?

内なる、しばしば曖昧な経験の世界の輪郭としての影を、田中は彼女の前作「影の三部作」によって扱った。「光を投げる女」(2011)で、彼女は

表象と外見のテーマを探求し、自分自身にそっくりな人形を用いて摂食障害の個人史の抑圧された記憶を照らし、これに続いて「絶対光度・絶対等級」(2012)、「内在しない光」(2015)を発表した。

 

東京とデュッセルドルフで鍛錬されたこの画家兼ビジュアルアーティストは、

自然の法則を扱うようにして、光と影の関係を彼女の特異な舞台芸術に取り

入れる。 「STILL LIVES」では、彼女は上昇する光の渦を作成し、

ゾフィーエンゼーレの会場の建築的特徴を常に見えるものとして公に晒すが、それが観客の関心の中心に引き出されることはない。この光の渦は、太陽と月が惑星を周回する速度にほぼ対応する時間構成に従う。 「リアルタイム」では、田中が比喩的な意味でこの会場を上空へと開くのに80分ほどの時間が

経過する。彼女は暗い会場を、円形に巡る照明(ステージの左右に座っている観客が定期的に照らされることになる)を少しずつレベルをあげながら照らすことでこれを実現する。これは、宇宙の無限に浮かんでいる、根こそぎに

なった都市の断片風景のメタファーだろうか?ゾフィーエンゼーレの回廊に

展示されたアーティストによる4つの素描は、これを示唆している。しかし

同時に、この暗い空間のらせん状の開口部は、作品についてのテキストで言及されている子供のような自己忘却の状態を示しているとも言える。より正確には、そこからの浮上を。

幸いなことに、田中は単なる子供の幼稚な自己忘却の状態を模倣するのでは

全くない。それでも、彼女はそれらの本質をかなり捉えている。なぜなら彼女とパフォーマーである芝原芳恵は共に、その静かな存在感のなか、あたかも

彼らにとっては外界が失われたかのように作用するのだ。暗い色の服を着て、彼らの姿は薄暗い場所ではほとんど見えない。単調で一貫してゆっくりと実行される動き(主に歩く、ひざまずく、這うなど)で、台車やロープウェイなどによって舞台に登場する明るいトーンの家具やオブジェ(定規、本、鉛筆など)の寄せ集めの後ろに隠れているのだ。

公演の最後には、黒い鏡面の楕円形の床面に合わせ傾斜した位置で、家具に

立体的切断が施される。彼らは、それらは洪水災害に苦しめられた文明の遺跡のようにして、海に浮かのでいるー忘れられて長い間放置されていた場所の

痕跡として? 確かなことは、空間の中にも時間の中にも、それらは固定されることなく存在しているようだということである。

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