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影の舞台
多和田葉子
日本経済新聞 2017/4/3付
ベルリンは演劇が盛んな町である。ダンスも音楽も展覧会も詩の朗読も盛んである。そして何より、どのジャンルにも当てはまらないパフォーマンスが盛んである。
ベルリンの変わっているところは、有名な人が出演するから行くというのではなく、まだ名前を聞いたことがない人の作品だから見たい、という観客が大勢住んでいることかもしれない。専門家やマスコミの高い評価をすでに得ている作品ばかり鑑賞するのではつまらない。自分の目で観て自分で評価する。そして十年後二十年後にその劇団、画家、舞踏家、作家などが有名になった場合は、「私、あの人がまだ無名だった時代に観たことある。観客は十五人くらいだったかなあ」などとさりげなく自慢する。これも文化鑑賞の醍醐味だろう。
先日、知人のBさんが「ベルリンで活動している田中奈緒子さんという人がいる。すばらしいアーチストなのに、どちらかと言うとまだ無名だ」と教えてくれたので、その人のパフォーマンスを観に行った。連日公演なのにその日だけでも百人くらいは入っていたので、残念ながら十年後に自慢できるほど「無名」ではないようだった。
舞台の真ん中に置かれた机の上には人形が横たわっている。机の下には、いろいろなオブジェがみっしり設置されている。これだけならインスタレーションだが、作者自身が手に持った豆電球の強い光を当てていくことで、背後のスクリーンに影絵が映る。映像は刻々変化していく。言葉はないが、観ている人の心に物語が喚起される。
わたしは鬱蒼とした森の中を歩いているような気がした。アーチスト自身の長い髪の毛の影が森の植物のように見えた。森はいつの間にか都市に変貌し、高架道路が見え、港が見えた。その都市は東京のように傷つきながら成立し、廃墟として成長していった。懐かしさと恐ろしさで胸がしめつけられた。一時間たっぷり、濃厚な感情を伴う記憶への旅を体験させてもらった。
公演後に舞台に近づいて見ると、曲がったフォークやキャニスターから引き出したフィルムなどが机の下にぎっしり設置されていた。これが森や都市の影絵になったのかと驚いた。ふとゴミの埋め立て地「夢の島」を思い出した。文明のゴミの一つ一つに丹念に光を当てていく作業は大変だ。かがんだり、しゃがんだり、身をよじったりしながら、いろいろな角度から光を当てるという最底辺の肉体作業を引き受けて、公演のあるごとに、その作業過程を初めから終わりまで繰り返す。そこがパフォーマーの仕事のしんどいところでもあり、魅力でもある。インスタレーションならば、作品完成後は自宅のソファーに寝そべっていてもいい。バレエやオペラや演劇ならば、作曲家も作者も演出家も本番の舞台にあがらないでいい。一方、俳優やバレリーナの場合は舞台に立つことが仕事であり、そのことに喜びや誇りを感じている。ところがパフォーマーは、できれば隠したい状況にある瞬間の身体をあえてさらし、その場で労働し、何かを生産する。だから観ていて飽きない。
その労働は、古典バレエなどとはまた違った意味で優雅で、しかも楽しい驚きを感じさせてくれた。人形や影絵など子供の遊びが、みるみるうちに大きな魔性を発揮することへの驚きである。